台湾
皇后大道东 豆瓣 Spotify Discogs
9.7 (217 个评分) 罗大佑 类型: 流行
发布日期 1991年1月1日 出版发行: 音乐工厂
假如你还不知道的话,香港是全世界惟一在天空有老鹰盘旋的大都市。

假如你还不知道的话,在中区遮打道富丽华酒店向上仰望,有颗巨大的建筑物构成的星星在上空,不论昼夜。

一百五十多年来,香港就在被遗弃中成长,在东方与西方的夹缝中妥协求生存。她的历史就是一段梦的轨迹。

奇怪的是,任何来到这里的人,都也像逐渐的走进了她的梦境般,跟着她成长;而且奇迹似的找到了他们的梦,而且不想离开。

因为他们知道,所有的不可能的困顿,都终于被化解,而且梦幻似的继续向前行。

于是这样的时代终于来临:一九九零的年代。

住在这里,我觉得像个掮客一样,做着一宗历史与未来之间的最大买卖。

而此时此地的香港客,谁又不是呢?谁?

“东方之珠,整夜未眠,守着沧海桑田变幻的诺言。”

是的,两点之间最短的距离,不是直线,也不是斗争,而是一个梦想。

于是我知道,在历史与未来之间,我们正在梦幻里,在她的怀抱里,迈向一个只有她知道的未来。

罗大佑


关于音乐工厂……

本厂是罗大佑将他的音乐基地迁册到香港的组织。

本厂旗帜鲜明,以生产富中国特色符合香港市情之产品为最高指示。

本厂是唯一坚持制造声浪以美化小气候保护环境的工厂。
空間與認同:太魯閣人認同建構的歷程 豆瓣
作者: 沈俊祥 出版社: 翰蘆 2008 - 6
本書環環相扣的論述,上下縱恆時間上百年,東西橫跨中央山脈南投花蓮兩地的空間,形成本書既是時間上元原流長的族群遷移史,也是族群變遷與形成的空間社會史,更是政治與文化激烈辯證的認同史。
本書探討空間與認同,從空間而言不只區位改變,也帶來生態環境差異、動植物類屬變化,以及列場與生活換為及方式的重心界定,甚至影響到祭典文化的演變,這些均與認同形成相關性。本書的精采性,藉由清楚的敘述架構交代「過去」以什麼路竟導致「線」的存在,而現在又將以何種方式影響到「未來」,因此形成認同架構的歷程。
纯情青春梦 豆瓣
8.2 (14 个评分) 潘越云 类型: 爵士
发布日期 1992年8月1日 出版发行: 滚石
"纯情青春梦"是潘越云继"情字这条路"之后的第二张台语专辑,在制作人陈升追寻创意的概念之下,塑造这片土地,新时代中的新台湾女人的风格。潘越云的歌声为这个时代的女子找寻新的定位,唱出现今台语歌的风貌。
台湾の法教 豆瓣
作者: 劉枝萬 出版社: 風響社 2019 - 1
華南一帯の民間信仰の基層をなす巫術・法教。
本書は、清末から日本統治初期にかけて勢力のあった閭山(りょざん)教系の一派が相伝した科儀本(儀礼のテキスト)24点の全貌を紹介。さらにその本務である治病・魔除け・加持祈祷に用いる符令(お札)の原本・符式簿を詳細に解読。123件の符令から、法師の奉じる神仙やさまざまな呪法、法壇における儀礼をつまびらかにし、法教の実践を再現。
著者の民間信仰研究の到達点を示す大著。
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本文より
第一章
一 前言
(前略) 法教は道教よりも、いっぱんに低級だとみなされているだけに、その機能はなおさら民衆の日常生活に密着しており、加持祈祷の如き些細な法事すなわち呪法による行事ならば、民家で手軽にやれる便利さがあるから、その伝来は道教よりも早く、漢人の初期移住から、つとに導入されたと考えられる。
事実、客仔師と呼ばれる一派は、清初においてすでに活動がめざましく、弊害をもたらしたことが、地方志に記録されているほどである。各志を綜合すると、法師は法官ともいい、道士ではないが似ており、米卦(米占い)や補運(運勢なおし)などの法術を得意とし、必ず赤鉢巻きをするから紅頭師と称され、また広東潮州の客家人出自が多いため、客仔師とも呼ばれているとある。
そして道士が道教に則り、道服を着て、科儀を行う行為を道場と称するのに対して、法師が紅頭法により、ふだん着のままで赤鉢巻きして、法事を行うことを法壇あるいは法場といって、道教と法教は区別される建前ではあるけれども、清代の地方志にはまた紅頭法事を道士の仕事に取り違えたり、法師を道家の流とか道士みたいなものだという誤認もあるほどだから、民衆にとってはなおさら紛らわしくて、判別が容易ではなく、今日に至ってもなお然りである。(後略)
四 巫術
法教の本質はもとより民間信仰の底層に沈澱した巫術で、古代巫俗の残存にすぎないから、いかに道教が民間信仰に芽生え、ことに天師教は巫術性が強いとはいえ、両者には当然一線が画される。むろん外見も違い、法師は道士の服装を使用できず、ふだん着が原則だが、閭山・普庵・徐甲・嘛呢の諸派は眉と称する冠をかぶり、さらに裙をはく者もあるが、いかなる場合でも、赤布で鉢巻きしたり頭を包んだりするという頭部の固定標識だけは絶対に欠かせず、俗に紅頭仔(頭の赤い者)と呼ばれ、その法術を紅頭法と称するゆえんである。(中略)
しかして法場の科儀・呪法は、名目こそ夥しく伝えられているが、社会の変革によって需要がなくなり、伝承が失われて名称だけ残ったのもある。いっぽう法教の担い手としては、専業法師のほか、道士も無視できない。道士は道法二門兼修で、紅頭法をも心得ており、法師の業務も行っているので、彼等によって伝承されている法術ないし科儀もある。(後略)
第二章 台湾の法教資料――閭山教科儀本(劉枝萬述/石井昌子編)
一 資料の概要
(前略)資料は科儀本と掛図の二種類である。掛図は法教の儀礼を行う際に法場に掛ける神像や十王図などである。使用を重ねるうちに線香で煤けたり破損してゆく、一種の消耗品であるが、劉博士所蔵のものはいずれも保存状態が良く、絵柄も綺麗なものばかりの上質のコレクションとなっている。今回はこの中から法教との関係を示す内容のものを六点選んでカラー口絵に掲載することとした。(中略)
次に科儀本だが、全体で二四点あり、記された筆写年代からは、一八一六(嘉慶二一)年から一九二二(大正一一)年までが確認される。劉博士によれば、以下の由来と価値を有する資料である。
新竹県の客仔師の一派のものと思われるが、現在では詳細は不明である。この一派は「悪霊の辟邪(魔よけ)」を得意とし清朝時代に勢力があったが日本時代になると急速に消滅してしまう。総督府の政策と近代医療の普及のためと考えられる。
資料群としては、次の点において価値が高い。
科儀本は法師が儀礼に際して参照するテキストなので、元来消耗品である。また、師弟相伝とされ弟子がある段階で筆写するもので、容易に外部に示されるものではない。この資料は一つの壇のもので、まとまって入手したことから出所が明らかなことに加え、その壇の行っていた儀礼内容を伝える意味で価値がある。
また、達筆で誤記のないものが多く含まれることや、テキスト中に「廣顕壇」「澎呂石興信記」「石興」などと押印されているものが多いことから、この壇に勢力があり、羽振りがよかったことがわかる。その勢いは清末から日本時代初期までで、法教の活躍のはなやかな最後の時代と重なる。つまり、当時の法教の本流に近い教壇のものであった可能性が高く、資料としての価値がある。保存状態がよいのは活動が急速に廃れて忘れられていたからであろう。
二 科儀本の分類と配列
一群の資料としての価値は以上の通りだが、それらを資料として掲示するためには、分類と配列をしなければならない。しかし、各テキストについて詳細に検討していくには、儀礼の実際の再構成など周辺調査を含めての膨大な作業が必要なので、ここでは、タイトルとテキストから知られる内容により、およその分類・配列をするにとどめておくことにする。
劉博士の挙げられた原則としては、まず陽(加持祈祷のための請神科)を先とし、陰(死葬儀礼)を後とすること、また、儀礼においては、神を迎え(請神)、神の力を借りて術を施行し(治病など)、神に接待をして、送り出す(頌神、送神)、という順序が基本型なので、それにしたがって配列を心がけること、の二点があり、博士と本文内容を吟味しながら配列を検討した。
(それ以外としては、残されたテキストの形態から類推できる要素、すなわち、筆跡や書写年代、製本様式や用紙の異同によって、テキスト同士の近縁関係が想像されるが、これは本質的な事柄と少しずれるので、参考にとどめておく。)
以上の原則に基づいて、配列したのが表1である。およそ01から04までが請神、05から10までが施術、11から13が頌神、送神と分類されるが、03のように請神と大献・小献という接待が合冊されていたり、04のように請神と碗卦が含まれているものもある。
さらに、14以降については、通常とは異なる場面で使われたテキストと思われ、とくに17から22は信徒のために法場で使われるものではなく、教壇内部での使用が推定され、今後の検討を要するものとなっている。
冒頭にも述べたように、課題を多く残しているが、法教研究も少しずつ広がりを見せている今日、基礎資料を公開して、多方面からの検討を期待することとしたい。(後略)
第三章 所蔵科儀本
01 『頭壇請神書』 天運壬戌(一九二二)・四三頁・〈請神〉・一三六×二一六
・「請神」とは、神祇の降臨を乞う科儀の謂だから、とうぜん法場の最初におかれる。しかしこの場合は「頭壇」を冠しているから、複数の「請神」を含めた、複雑な法場劈頭の科儀である。
・難病治癒祈願のため、患家に招かれて行う「解災除病進銭保運」の法場だが、退災病のみならず、解煞神から保平安など改運の目的まで含んでいる。
・三奶夫人率いる神軍はもとより、その他閭山教の五営乃至三十六営兵将護衛のもとに招請される神祇は、道教・法教の高神位をはじめ、民間信仰を反映した地方神や観音菩薩・普庵祖師などの諸仏を含み、雑然としているが、かえって法教としての閭山教派の真面目を保っている。
・テキストの抄録年代は、文中の「今據台湾總督府某州某郡」とあるによって推定できる。
・科儀を司る主役法師が「師男」と自称しているが、特異な呼称である。
(02以下は略)
第四章 総説
一 符式簿とは
標題はないが、各種の符式を収録した符書である。書類の決まった書き方を書式というのにならって、符令の書き方を符式というから、これを一冊にまとめれば、符式簿になる。法事の進行過程において、符令と呪語は配合して行われるから、法師が手本として依拠し用いる伝抄本は、たいてい両者混合の符呪簿になっている。しかし分載したものもあって、この場合は符簿と呪簿になり、符令が一般に符仔と呼ばれるのにならって、符簿も符仔簿と俗称されているのである。そもそも、法師の修業学課としては、
1:駆邪押煞法、すなわち魔除けや加持祈禱の要領。
2:呪法、すなわち呪文の唱えかた。
3:符法、すなわちおふだの画きかたと使いかた。
4:指法、すなわち指を組み合せて秘術を行使するやりかた。
5:止血法、すなわち神懸って怪我した童乩に対する止血手当て。
などが挙げられる通り、符法は呪法と共に、修行過程における比重が極めて大きい。故にたいていの法壇は、それぞれの師伝による符式簿を備えており、必要に応じて画符の手本として用いているのである。符の正称は符令だが、単に符とも言い、殊に俗称の符仔が、日用語としてよく使われている。市井に法壇をかまえ、営業を行っている法師は、暇な時を利用して、需要度の高い符令を画き貯めておき、また法事執行中の時間節約にもしているのである。
符令書写の礼儀作法は、童乩が神卓前で起立し、或いは跪いて、乱暴に殴り書くのとは反対に、法師は椅子に腰掛けて卓上に向い、一途に精神をこめ、せいぜい低声で勅符呪をつぶやく程度で、落ち着いて、もの静かに行われ、高声や派手な所作を伴わない。
符式簿は、その内容から言えば、符式という単一資料に対する覚え書きとか記録にすぎず、羅列しただけだから、強いて分類すれば、雑録の如きものである。従って体裁は、科儀本の如く整然とせず、首尾が揃わず、重複再録もあって、いかにも雑然としている。しかし、教派および法壇の所在地という背景は、おのずから反映されており、ここでは台湾北部の漢族移住民に即した一面がにじみ出ている。例えば用途が、辟邪治病に偏重していることは、往時の開拓がいかに困難を極めたかの一証でもある。実際、病苦にあえぐ庶民にとって、かかる符令は、しばしの安らぎを与える、一服の気安め薬でもある。(後略)
第五章 各符の解説
1号符「玉帝勅……合家平安」(保身符)
説明に「帶身」とあるが、「帶」は俗字の「帯」となしている。すなわち、平安符を転用した、肌身離さず携帯する、お守りとしての保身符である。符式は、道教式合成偽字とか、記号や模様などが主体になっており、独特な構成である。
符頭は、希な四層構成で、複雑にして、かつまた分離式でもある。その上層は、小円と「十」字を組み合せて星辰を示す「〓」記号である(単独記号としては「総説」および55・103各号符参照、「日月」二字と組み合せた三光記号は7・17・36・44・45・46・60・64・71・98・105・120各号符参照)。第二層もやはり星辰記号だが、上に屈折曲線を載せて、三小楕円を包みこんだ円形模様「〓」である(「総説」および17・44・64各号符参照)。第三層は、常用されている三清記号だが(「総説」参照)、第二層との間に、「佛」字が介在しており、三個並列の「〓」記号は、両側の二つが変形している。しかもその位置は、甚だ妥当を欠き、慣例としては、上層すなわち符令の先端に据えるべきであることは、すでに「総説」で述べた通りである。下層は、五星の星宿図だが、その構造は、二十八宿星図の「星宿」とは、似て非なるものである。五星の配置は「〓」となっており、上下に分れ、上の星辰を示す二個の小円は離れているが、下の三星はそれぞれ短線で連結している。しかのみならず、上の二星と下の三星の位置は、その中間を、巨大な四角形網目模様で隔離されて、なおさら目立たなくなっている。かように、四層構造符頭の例は少なく、その希少価値を以て、本号符の格式の高さを誇示しているのである。しかして、各層が直結せず、中間に符文を挟んだ分離式多重符頭は、符式の常套であり、事例が少なくない(「総説」および5・9・10・26・27・30・31・32・38・46・55・56・60・78・80・86・97・105・106・110・116各号符参照)。
符文は、三段に分れる。上段は、「佛」と「〓」の二字だけだが、その中間に天羅地網を表わす四角形網目模様が挟まれている(16・17・60・64・105各号符参照)。「佛」字は、最後の筆画を伸ばして、全字を円く囲んでいる。その両側には、「玉帝勅」と「天師勅」の二句を配しているが、これは玉皇大帝と張天師連合の、定型化した、希な複数司令神である(2・16・25・42各号符参照)。「〓」字は、その両側に、「天清」と「雷火」の二句を配している。しかして、この場合の「佛」とは、主動仏のことを指しているのだが、後述の如く、普庵祖師を指していると推定される。なお、(「総説」および38・64・92・113各号符参照)は邪鬼や悪霊などに対する威嚇の偽字だが、ここではまた本号符にこめられている霊力の中心、ならびにその発揮点をも示しており、符文とは遊離しているのである。
中段は、「雷」を五字連ね、各字の下部両隅から、三巻きの鬚模様を八字髭型に延ばし、その先端に「火」字を嵌込んでいる。雷火とは、落雷の轟音と稲妻を神格化した、雷公と雷母という一対の夫婦神を指している(15・16・47・103各号符参照)。この五字連続の鬚つき「雷」字は、二式ある五雷記号のA式に当り(3・4・5・10・58各号符参照)、全体で雄渾な図形を構成している。
下段は、〓状のくねった交差曲線と、両足の如く股を広げて垂らした二本の曲線合体の、変形「令」字(「総説」および20・26・27・30・31・32・39・40・41・64・70・71・81・82・97・100・105・110・120各号符参照)、及び「五雷大將□□□法」で、判読不能が三字あり、「發」を同音の「法」と、故意に誤写している(「総説」参照)。またその両側に「六丁」・「六甲」と、「合家」・「平安」の対句を配している。
本号符について、符式の面から見れば、いかにも複雑すぎて、それだけに難解であり、常用の符令ではないことを仄めかしている。実用性の高い符令ほど、符式が単純化される傾向があり、これは需要と供給という実際面から見ても、首肯できる現象である(「総説」参照)。
三巻きの巻き鬚模様は、他の文字にもつくが、ここでは「雷」字につけ加えられている。しかして、かかる八字髭型の「雷」字記号は、本号符のほか、3・4・5・10・25・41・58・78・123各号符にも見られ、合計一〇例で、比率はかなり高い。無論これは単なる虚飾ではなく、実は威力の誇示にほかならないのである。
上段円囲いの「佛」字は、さらに巻き鬚模様の尾を引く例もあり、高位仏菩薩の漲る霊力、すなわち霊験あらたかな神通力を誇示しているのである。事例としては、13・35・36・44・45・53・55・60・71・74・75・79・98・105・120各号符があり、本号符を加算すれば、合計一六例になり、使用頻度の高い手法である。そのうち35・36・53・74・75・79各号符は普庵祖師で、98号符は観音仏祖、105号符は阿彌陀仏、120号符は仙師で、各一例しかないから、確率から推して、本号符の主動仏も普庵祖師と推察される。
しかして、「合家平安」こそ希求の目的であり、家宅正庁の神卓上か燈梁(天公炉や字姓燈などを吊す梁)に貼る、平安符の常套語である(12・25・32・39・41・50・69・78・86・100各号符参照)。
符文を整理すれば、「玉帝勅、天師勅、佛、(天羅地網図形)、天清雷火、(五雷火図形)、六丁六甲、□□□發、合家平安」となる。大意は、「司令神たる玉皇大帝と張天師の命を奉じ、普庵祖師が主動神として、五雷神ならびに六丁六甲(5・36・38・82・92・97・113・120・122各号符参照)の神軍を率いて天降り、不運の民家に赴き、雷火を猛烈に発して悪霊を退け、また天羅地網を張りめぐらして一網打尽にし、もって個人のみならず、全家族の息災をも護る」という、広域の護身平安符である。
符脚は、「印」字を縦に割って、中に、「罡」字を挟んだ「罡印」二字の重複式であり(「総説」および4・5・10・29・42・47・66・69・74・80・94各号符参照)、複雑な符頭とは、ほぼ見合っているのである。全構図から見れば、本号符は人の意表をついた、複雑にして、特異な図形を以って奇を衒うという、いかにも神秘めかした符令である。また、構図が複雑であれば、それだけ人々にとって、その霊験に得心がいくという、符令の好適例でもある。
(2号符以下は略)
記帳遊戲 豆瓣
Double Entry: How the merchants of Venice shaped the modern world - and how their invention could make or break the planet
作者: Jane Gleeson-White / 珍.格里森─懷特 译者: 楊雅婷 出版社: 行人文化實驗室 2013 - 5
本書揭露商業界無人告知的祕密:文藝復興因何而起?資本主義為何能夠發展?GDP又是如何創造出來的?全部來自於「記帳」!
十五世紀,會計學之父帕喬利改良並傳播複式記帳法時,並沒有想到這個「記帳方式」會從此改變這個世界。當時大部分的威尼斯商人還在用艱澀難以運算的羅馬數字在計數,也不是每個商人都樂於記帳;但當帕喬利的記帳法藉由印刷術從義大利傳播出去後,事情產生了變化:透過記帳,商人更明白自己的收入與支出,以及企業需要修正的部分在何處。這個讓每位商人更瞭解自我事業的改變,因而創造了文藝復興──商人得以將滾滾而來的收入投資於文化事業上。
記帳法自此時踏入了世界潮流,成為每位從商者必備的技能,並改變的無數的歷史。
本書正是透過記帳的起源,描述記帳法如何一步一步控制我們的世界。在書中,我們可以看到隨著工業革命時代的來臨,記帳法對於成本的檢視,提供了商人們「集資」概念,使得集資得以運用在大型產業如鐵路、工廠等運作之上。股份公司因而出現了,商業又往前邁進了一步。也在本書,我們見到記帳法如何影響馬克思與恩格斯,奠定《資本論》的寫作基礎。「資本主義」這個名詞也在同時代誕生。我們還見到記帳轉化為會計,自此會計師變為一門專業,無論任何企業都需經過會計與審計的檢視。最後,記帳「檢視整體經濟」的概念成為建立GDP的指標,從記帳概念演化而來的GDP,綁架了二戰後的每個國家,各國政府每年都汲汲營營於追求GDP的成長。
這一段記帳法控制世界的歷史,從來被掩埋於商業歷史之下,而作者珍.格里森─懷特在檢視文藝復興的商業與藝術時,意外地發現了這段祕密,透過《記帳遊戲》,她揭開了記帳強大的影響力,也透過此書提醒大眾,成也記帳法、敗也記
魏晋史学的思想与社会基础 豆瓣
7.0 (6 个评分) 作者: 逯耀东 出版社: 中华书局 2006 - 9
魏晋处于汉唐帝国之间,是一个解构与重组的时代。在解构与重组的过程中,许多矛盾现象杂呈,最显著的是儒家思想失去其原由的权威地位,原来在经学笼罩下的其他学术,纷纷脱离经学的羁绊而独立。但由于史学和经学的关系过于密切,所哟史学独立的步履缓慢而迂回。但在史学主流的编年和纪传二体之外,却出现了一系列非儒家价值体系的新史学写作形式。不过,这许多新史学写作形式的思想根源与社会基础,都深植在魏晋时代之中。逯耀东教授以其多年治魏晋史学的经验,结合中国传统史学的发展与流变,对这个问题作了较深层次的探讨与分析。
逯耀东教授从事历史教学与研究工作四十馀年,范围集中于魏晋南北朝史、中国史学史、现代史学、中国饮食文化史。擅长历史随笔、文化散文的写作,一生勤于著述,笔耕不辍,历年所撰史学论集、散文集二十馀种。本书为逯耀东教授研究魏晋史的代表作,广为学界所知。该书着重考察这一时期史学主流之外出现的一系列非儒家价值体系的新史学写作形式,并结合中国传统史学的发展流变,探讨这些新史学写作形式的思想根源和社会基础。
闽南情缘 豆瓣
群星
发布日期 2002年1月1日 出版发行: 大陆
超炫人气明星,倾情打造深情音乐,完全精华收录版。
全是些上了年纪的闽南语歌曲,有中意的就听听看吧,还是不错的。
日本統治期台湾における訳者及び「翻訳」活動 豆瓣
臺灣日治時期的譯者與譯事活動――殖民統治與語言文化的錯綜交匯現象(日本學研究叢書 20)
作者: 楊承淑 編 出版社: 臺大出版中心 2015
譯者是殖民時期介乎統治者與被統治者的見證人。
本書藉由譯者的內在視角與外在活動,剖析臺灣日治時期的殖民統治。
本書以臺灣日治時期的殖民統治為研究範疇,並以探討該時期的譯者與譯事活動為主旨。七位作者對於前述主題的關注,主要在於殖民統治下的譯者角色功能,以及譯者在語言文化上的「翻譯」活動。
殖民統治並非臺灣獨有的歷史記憶。在亞洲,甚至可說是各國共有的歷史軌跡與印記。直到數十年後的今天,殖民的歷史烙印依然在亞洲各國的語言文化與政治經濟中,貫穿於民眾物質與精神生活的脈絡。然而,多數國家對於過往的史料與事蹟往往流於忽視或是視為禁忌,以致環顧同受殖民統治的亞洲鄰國,迄今未見對本國殖民經驗的深刻研究。
而另一方面,亞洲過去殖民統治區域最廣的日本,也同樣未在其歷史研究(無論在日本史或東洋史)中,正視日本在亞洲的殖民歷史。寄望透過譯者的內在視角與外在活動,將殖民時期介乎統治者與被統治者的見證人──譯者的言述,進行深入的探究與剖析。
本書は台湾の植民地統治を研究対象とし、その時期の訳者と翻訳活動の探求を主旨としたものである。7名の執筆者のこの主題に対する関心は、主として植民地統治下における訳者の役割としての機能及び訳者の言語文化における翻訳活動にある。
植民地統治というのは台湾のみの歴史的記憶ではなく、アジアにおいては各国共通の歴史の軌跡と記憶であるとさえ言えるものである。数十年経過した現在でも、依然としてアジア各国の言語文化や政治経済の面において、植民地統治の痕跡は、一貫して民衆の物質的及び精神的生活の脈絡の中に残存している。しかしながら多くの国々は過去の歴史的な資料や事蹟をしばしば軽視したりタブー視したりしがちであり、ともに植民地統治を受けたアジアの隣国を見渡してみても、自らの被植民地経験に対する深い研究は今だに見られない。
一方、アジアにおいて過去に植民地を最も広く有した日本もまた、同様にその歴史研究(日本史学であれ東洋史学であれ)において、アジアでの日本の植民地支配の歴史を正視していない。
本書は以上の視点に基づき、訳者の内在的視点と外在的活動を通して、植民地時期において統治者と被統治者を介在した証人としての訳者の言述に対して、考察と分析を深めようとするものである。
落筆驚風雨 豆瓣 谷歌图书
作者: 周德偉 出版社: 遠流出版事業股份有限公司 2011 - 6
周德偉,一九○二-一九八六,湖南長沙人,一九二○年入北京大學,後留學英倫與德國,為著名經濟學家海耶克門生。一九三七年對日抗戰爆發,返國任教湖南大學經濟系兼系主任,及第二屆國民參政員。到台灣後擔任財政部關稅署署長。先後於重慶大學、中央大學、台灣大學、政治大學任兼任教授。
周德偉之父與黃興為鄰,曾參與革命,以傳統儒生方式教養周德偉,影響其一生:治學嚴謹,濟民為國,並一心為台灣引介西方自由主義思潮。五○年代紫藤廬老宅即為以台大為中心的自由主義學者的聚會場所,張佛泉、殷海光、夏道平、徐道鄰等十餘位學術界人士每隔兩週在此聚會討論,有系統地介紹海耶克的思想,周譯有八十萬字哈耶克巨著《自由憲章》,殷海光先生並在其鼓勵之下翻譯《到奴役之路》。當時在台大就讀的李敖、陳鼓應、林毓生、張灝等亦常來周宅與前輩學者們交流。
退休後旅居美國,周德偉親筆寫下自傳,可惜未竟全功,僅書至其任教湖南大學而已。然因民國初立,正是其成長之時,並得親身參與時局,亦曾追隨汪精衛、顧孟餘等人;書中多次提及國民黨黨史之偏頗,故其第一手回憶對民國史有不同見解。
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●自序
我的一生與國民黨的點滴
孔子臨淵而嘆曰:「逝者如斯夫,不舍晝夜」。余自幼以孱弱之軀,向未想到不舍晝夜的活到今年已七十八歲。兒女輩均以不知我之往事為憾,懃懃勸余作自傳,藉供觀摩。最初,余認為:自傳乃西方名人的夙技,內容難免誇張自己,貶損人若物之客觀事實,即俗語所謂自拉自唱是也,中國文人學士之修養,不立意以鳴高,不炫美以為德,如是「人心方趨敦厚,教化方昭純美」。我又以為,最好的自傳,莫如自己之著作,我既已刊行數百萬言的著述,有以自見於世,並不為權勢而稍屈,是非總可由後人釐定,何必陷入俗士之窠臼。聖如文王周公孔子,以及後代無數名賢碩德,一意以裨益世教為務,從未曾寫自傳,以鳴得意,卒之光輝萬丈,照耀古今。我雖稍具學問及閱歷,但置之茫茫宇宙,及日進不已之文化中,似不足道。古往今來人類累集之知識愈多,文明發展之水準愈高,則個人分享之知識愈少。我之有待於人者與人之有待於我者,不啻霄壤之別。真理乃天下之公器,果執理而真也,不患其不傳,立論而妄也,我不自毀,人亦將毀之。莊生云:「計人之所知,不若其不知」,則個人之微末知識為事跡,自後人觀之,已成雞毛蒜皮之小事,傳與不傳,其歸趨一也。
但兒女輩仍堅請不休,內子尤殷勤敦勸。兒女所謂:「我們經父母的培育,幸已成人,從未受過不可逾越的困苦,不似父親一生艱難,受盡人所不堪的折磨,做了許多人所不願為、所不敢為的事業,砥柱中流,有益世道,吾人所知,不及百一,雖父親胸襟廣闊,無意於宣揚自己,但不寫出,我們無從獲得更多的教訓。再有進者,父親生當新舊遞嬗、文化交流之會,備具古今及東西各方的學問,交遊既廣,切磋又多,文章另具號載,在人文科學哲學方面,總算結集了自清末維新以來的成果,雖後事不可知,前事已可師法。但父親過去為文,向未受到應值得的注意,何況後代?當代語體文流行,中學生以上均看不懂古文及文言文。父親的文章識解,論古,確是超越前賢。蓋前賢只能作論政、紀事及辭章靡麗之文,且所論之政,所經之事,非後今日之政及今日之事。不似父親之文,匯集古今中西名家之言,如淵似海,閱歷繁複,亦非前人所可企及。夷夏之分已被打破,新舊之爭,亦已如量論正。且寫今世之事,不免新創術語,有心人讀之,亦祇半知半解,且岐義百出,誰能識父親之本懷,且今日之當政,正貶抑正士及知識,崇獎庸俗及無知,父親決不似古人之幸運,能垂名文以自見。盍稍貶焉,寫一本實的自傳,乃避艱深之探討,務期閱者人人能解,反較專門著述有益於世用。」內子則曰:「文化由累積而成,君亦有其貢獻,傳之後世,不亦善乎?」余為其所感乃稍變原意。
接受彼等之意見後,原只擬寫一本:「我與國民黨的點滴」。我非黨國大員,出生既晚,未嘗加入興中會、華興會、光復會、同盟會以及民國二年之大國民黨。自民國十五年後方參與政治活動,自無資格寫國民黨史,且自三十歲後,執見又與中山異執狺狺者流爭吠所怪,禮失而求諸野,自古已然。所閱官方文書狂悖謬妄,如尊陳其美如神智,抑黃克強如鬼。至於誤國誤民之獨夫,則有豢養之文奴歌功頌德,尊之如堯舜文周孔孟,且集政教大權於一身,強奸民意,敗壞士風,為前史所無。嘉言語錄到處流傳,掩盡天下人之耳目,自上尊號曰民族救星也,世界唯一之偉人也,萬口雷同從而利之,不復知人間羞恥。憶民國五年袁世凱篡國,蔡松坡將軍率二千疲敝之卒,宣告於眾曰:「中華四億人民若讓袁世凱做了皇帝,豈非全民族之恥?余將不計生死成敗以反對之。」今日尚有蔡公其人乎?予自民國初年叨渥庭訓,民國九年後追隨先君與上述各會人士交往,厥後躬聆各方人士之言論,已歷五十餘年,所知或顯著或隱微之實跡,深銘於懷,紀之可補正史之闕,真相稍明,後之覽者或將有感於斯文。孔子布衣也,刪詩書,訂禮樂,作春秋,以禮為綱,以經為緯,斷以自己之識解及社會共遵共守之道德法,褒貶二百四十二年之事,大都為弒父弒君,亡國虐民,亂倫犯紀之大事,後世垂為典範,其禪意教仕,豈有窮期?孔子道至大而不當其位,乃毅然述作,代行聖帝明王史官及大法官之職掌,而無所怯。春秋實為當代一部大野史。故孔子曰:「知我者其惟春秋乎,罪我者其惟春秋乎?」微末如予,何能望此,然而所述既皆事實,此物此志,亦其類也。至於個人一生任教仕宦小事,轉瞬即成煙塵,故凡涉及私人恩怨者一概泯除,只述有關國運及風氣之大事,既只限於個人經歷,漏述必多。故改名曰「予之一生與國民黨之點滴」,如是則先世亦可納入矣。形勢所逼,又落入西方人士寫自傳之陷阱,自相違迕,幸讀者諒之。然而行文亦自有限制:
(一)凡寫一己之事,必擇其與世道人心,社會風俗,國計民生有關之大事,凡私人恩怨,屢遭誣構,一概不書,與小人爭,自己又居於何等?此類不平之細故,檔卷俱存,兒女欲知予為何等風格,可自行翻閱,不以公之於世!兒女欲加整理問世,則予之骨已朽,任之而已!所謂不立意以鳴高也。
(二)又著「附錄」多篇,自關人之大節,並紀一生讀書心得,或已存有得而未筆之於書者,或早已存作今已佚失者。又今日印刷術昌明,當路在勢者各蓄徒眾,欺矇群眾,敗壞風氣莫此為甚,濫肆宣傳,帷爬梳闕失行文必有根據及典則,方能讓人信服,故此「附錄」,不免繁褥,有志之士,其能深究愚衷乎!
(三)斯書寫成之後必顯國事之艱危及前人所犯之錯誤,國家必須改弦易轍,重加整建,故殿之以「跋文」,標出重建國家之大綱及原則。此雖個人之見,然戀往事,思來者,又融合中西哲理及法制,或不無一得。且任何主義乃環境促成,迨其屢試失敗,若仍拘泥不仕,必導致更大之悲劇。故獨標新見,願與世人共勉!
(四)作者身居國外,典籍不全,所紀之事,時日或有乖迕,深望讀者通其意,即為已足。司馬遷著<五帝本紀>贊曰:「顧第勿深考,其所表見皆不虛,書缺有閒矣,其軼乃時時見於他說,非好學深思,心知其意,固難為淺見寡聞者道也。」惟余紀身歷之事,不虞深考,其所表見皆不虛,則所自勵。他說多有,可備相互參證。是為序。
公曆一九七八年二月於美國之加州洛杉磯
尊德性齋老人 周德偉
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●他序
不容青史盡成灰
周渝
父親周德偉先生生於民國前九年,也就是西曆一九○二年,陰曆九月十五日,據說正好是當年陽曆十月十日。辛亥革命到現在已百年了,今年正是他老人家一百零九歲冥誕。他的父親,也就是距離我出生已相當遙遠的祖父,周壽椿先生,直接影響了父親的人生起步。祖父的中國經學與史學根底深厚,雖然命運坎坷,但家中藏書卻不斷累積豐富。他不恥科舉,以中醫為業。以他寬闊的胸襟與眼光,很早就注意到西學的重要。他幼年居處與黃克強先生為鄰,是為世交與好友。他曾秘密參與華興會,曾為革命招募民勇帶兵打仗。父親的人生即早即正持理想,胸懷大志,他這輩子的情志與生命,可說是全部奉獻給了重建中華的大業;一輩子為追求理想,維持人格而忍受艱辛、孤獨、挫折、屈辱與痛苦,母親和全家兄弟姐妹都共同承擔,說是全家受難也不為過。這當是一個胸懷經世濟民大使命感的儒者個人及家庭命運。希望父親遺留下來扎根的這個靈魂深處的痛苦噩夢,能隨著這本回憶錄的終於整理出版而露出一道曙光!尤其正在今日已十三、四億人口龐大中國的政經結構走入瓶頸,亟需新的視野與願景來引導,來轉入新的政治、經濟與社會秩序與軌道的當口...。
父親於一九二○年進入北大預科。當時北大內的馬克斯學說研究會,看他是個外地來的窮學生,想他可能會有階級觀念,曾吸收他做會員,但很快地就因理念不合而鬧翻退出了。一九二五年春,汪精衛在北方四處演講,宣揚中山主義,感動了無數青年學子,父親也就在那時與一些同學加入了國民黨,從此開始了他在中國近代史舞台與國民黨內的複雜矛盾的艱辛歲月。因此這本回憶錄,他命名為:「我的一生與國民黨的點滴」。
由於父親特有的稟賦與人格特質,讀書功夫下得深刻而扎實,中國經史之學的根底不必說,西學方面,在中學時,就開始念《甲寅》雜誌、《天演論》等翻譯名著。有系統地開始吸收西方重要的民主憲政、法治與自由的思想與理論。進入北大後,師從陶孟和、顧孟餘等北大教授,讀到了《原富》及其他經學及法學名著,而知識論與社會科學方法學也深深地吸引了他,開始研讀康德的「純粹理性批判」,由於他念中學時外語念的是德文,所以他的康德哲學是直接從德文入手。
以他如此扎實的研究與深刻的思考,他很早就看出孫中山的三民主義有很大的問題,尤其是民權主義,只提到人民的公權,即選舉、罷免、創制、複決四權,對於最根本的保障人民自由的私權,毫未提及,反而說中國老百姓的自由太多!而民生主義又搞得與共產主義糾纏不清,如真實施,恐怕製造的問題比原有的問題更多。但當時汪精衛在北方宣揚鼓動的氣氛下,知識份子普遍希望中國能即早脫離軍閥割據與混戰,在文人主導下,早日實施民主憲政。父親在自傳內說:「我自幼即有政治抱負,當時的形勢,北洋政府已屆末日,只有國民黨與共產黨夠格打倒北洋政府。我不相信共產主義及唯物史觀已如前述,打倒北洋政府,只有國民黨是當前可行之路,成功雖未可必,但總比其他黨派進步得多。政治運動總是現實的,個人幹不起來,故加入國民黨。...」(見第五章)
一九二八年,父親在天津創辦《天津雙週刊》,鼓吹實行憲政,反對軍人主政,反對打內戰,主張南方好好發展經濟、厚植實力,軍閥勢力自然會被歷史淘汰...。但到了一九二九年--「目睹當時國民黨之所謂訓政,無非新軍閥、新財閥攘奪權力,距離群眾益遠。新軍閥以蔣介石為領袖,附者盡闒庸奴才,財閥亦蔣氏一手培植...」「北洋舊財閥多以向蔣氏輸誠,滲入國民黨內分享杯羹。而才智之士,則排斥殆盡,歷朝開國規模之隘,無逾於此者...」
「當時萬念叢生,真不知如何著手,曾思獨組一自由黨闡明吾說,只使政府職權協助人民自由發展,而當時謀生不暇,資歷聲望又所不孚,不足以資號召,只有構想而已,終身無成愧恨而已。」(見第十二章)
由這裡可看到,為中國建立一個以保護人民權利與自由,促使社會自然演化、文化與學術自由創造與發展的「自由黨」,應是父親畢生嚮往的大夢罷!
隨即他加入了以實施憲政為號召,由汪精衛、顧孟餘領導以青年知識份子為主的國民黨「改組派」秘密組織。
一九三二年汪、蔣復合,父親在黨內及政界眼看即有不錯的前途,他卻深刻地意識到自己的學問尚不足挑起治國的大業,尤其要救中國,必須要在經濟學上下功夫。在別人積極從事政黨活動時,他卻用功研讀,終於在民國二十二年拿到鐵道部獎學金,負笈英倫,進入倫敦政治經濟學院,師從海耶克,廣讀奧國學派與北歐學派的論著,後又轉入柏林大學,用德文完成《中立貨幣論》論文。返國後任湖南大學經濟系主任時,創辦《中國之路》半月刊,又陸續用中文將它寫出。這篇經典論文,是在論述貨幣與生產必須維持穩定而平衡的關係,並闡明其原則與方法,以避免遭到經濟起伏膨脹收縮的干擾,這不只是維持社會經濟成長創造的大法,也是文化賴以發展的重要基石。他引中國經典《中庸》名言:「致中和,天地位焉,萬物育焉。」形象而生動地描述了「中立貨幣」的意義!
衡諸今天的中國及可見的未來,這仍是一篇極有價值與針對性的經典著作,卻是完成在七十餘年前的一九三○年代。父親去逝後,夏道平先生晚年曾細讀這篇論文,告訴我說,這篇不易讀的論文令人深思,受益甚多,真是一篇經典!
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父親晚年寫這部回憶錄,其實負著一個巨大的使命,等於是重寫國民黨史,他說:「我不寫國民黨史,國民黨將永無真史!」「雖然我只能就我的接觸,寫出片斷的真相。但此片斷的真相,多為世人所不知,所以不失其重要性。」
原因是,在台灣--
「國民黨的史料,都控制在黨史委員會,此會的主委與委員們,向來看著蔣介石的顏色行事。」
早年羅家倫做主任,尚能有所節制,只是許多文件不敢公佈。
「現在更不像話,宮廷的宦豎小人也當起主任委員來了!保存的黨史及史料,不知經過若干拋棄、修改、杜撰、匿藏,凡不利於蔣家的資料一概無存!例如吳稚暉是蔣介石的國師,他每天有日記,死後,蔣介石派其機要秘書整理吳的資料,預備大事宣傳,但整理之下發現吳稚暉晚年有不利於老蔣及小蔣的言論,老蔣就命其一火燒之。...」
父親描述道出的民國初及北伐前後,以及抗日戰爭前親身參與,歷經與體會認識的歷史,讀之真是令人驚心動魄,拆穿了蔣介石長期壟斷,以他為中心,自我美化,污辱先賢,極端扭曲的民國史及國民黨史。父親下筆握住民國以來有識的知識份子文人,欲建立民主憲政的大目標,與蔣氏這個嗜好殺人,常採取暗殺手段對付政敵的新軍閥頭頭的艱苦辛酸的鬥爭競逐場面,令人讀之不勝唏噓,升起無窮感慨。這段歷史不只是一段血淚史,更是一部中華民族良知受難史。父親認為他如不寫,歷史的是非黑白、顛倒冤屈永無以得正。這實是民族歷史、道德與文化上的一件大事!他是企圖效法孔子作《春秋》:「以禮為綱,以經為緯,斷以自己的識解及社會共遵共守之道德法,褒貶...(讓)後世垂為典範...。」
而他寫到自己的部分:「凡寫一己之事,必擇其與世道人心、社會風俗、國計民生有關之大事。凡私人恩怨,一概不書...。」
這就是周德偉(字子若,取效法孔子之意)晚年提出的一部自傳--更是一部民國史--的告別人生的力作。
父親是在一九七五年與母親一同赴美兄姐處即未再回來,行前已寫了若干篇章。由於長年以來,我們家常被監視,電話更是被監聽。在台灣書寫這樣一部著作,使他十分沒有安全感。他去國前,身體已很不好,胃痛從年輕時就未斷過,晚年更是全身到處疼痛,這可能是由於年輕時一心努力,不注意身體。母親說他在英國留學時,身體瘦得只剩下九十幾磅,當時穿的英國呢料西裝,居然後來成為我家念中學的窈窕大姐的小洋裝外套!在他離開台灣前,我每每看到已年近七十的母親對他辛苦的照顧與扶持,心痛不已。他在一九六七年退休後,抱病翻譯了海耶克的大部頭巨著:《自由的憲章》,似乎就是這部書,也使生命末期的殷海光先生終於明白了真正的自由主義,改變了他對傳統的態度;可惜他英年早逝,否則他的影響力,將另有一番景象。
父親是自幼讀中國經史,為文又受到章士釗及英國學界寫精鍊文章的影響。他帶文言的筆法,可能會使現在年輕讀者感到困難。但如能耐心慢慢熟悉他的文字,當可發現這是一部有崇高情操與深度思想見解的著作。前二章家族史讀來可能有些累贅,建議讀者可從第三章念起,將來有興趣再回頭讀前二章。
這份文字常十分潦草的手稿,可惜只寫到抗日戰爭初期在湖南大學任教的時期。可能是體能轉差,精神不繼,未得完成;也或許從民國初年到抗日戰爭這一部分是他最在意的,寫完這一部份,認為主要的使命已完成,從此停筆了。
這部父親的回憶錄能夠整理出來,有幾位女士與先生是我要致上由衷的感激:首先,是我的伙伴紫藤文化協會秘書長林慧峰女士,是她的魄力與毅力,力促並操作在紫藤廬三十週年時,把這本尊德性齋老主人最後的遺作呈現在大家的面前。
要感謝劉佳奇女士,是她尋找到願意打字的人,掌握打字、校對、排印的進度,並參與細校,使這部書能按期呈現出來。
而江玉英女士,也就是這位找了許多人後才找到的,願意耐心辨識手稿難認的字跡,逐步打出全書;她做了這份一般人都不願做的工作,我想這是大家都要感激的。
另外,我必須深深地表達對一位先生的感恩,就是鄭村棋先生,他邀中時工會常務理事陳文賢先生共同為這部回憶錄作了艱辛的初校工作;這份工作本來應該是由我來做的。
感謝戴芫品小姐,她費了許多精神,細心地查核史料,並對比手稿、鄭先生的校稿與排版稿;她也做了對父親其他手稿的整理與編排工作,而這份從散亂手稿整理起的工作,是在四、五年前由張志雲先生著手初編,在此也一并致謝。
我要感謝溫洽溢先生,以他的專業協助校正現代史人物的姓名及字號等。
最後,要感謝遠流出版社董事長王榮文先生,以出版家的眼光與使命感,把這部著作列入重頭出版;而吳家恆先生細心地在原書中找出「落筆驚風雨」的文句作為書名。
當然,對幾位為這部著作作序的學者:尉天驄先生、姚中秋先生、邵健先生、吳惠林先生,他們清晰地認識到周德偉先生在中國近代史與近代思想史上的重要性與關鍵價值,對他們這種深刻地用心與努力,把周先生的思想、人格與看歷史的角度闡明並介紹出來,我是十分崇敬及感佩。此外,對最早發現並呈顯父親重要性的陳明先生、朱學勤先生與賀照田先生,我也要致上由衷的敬意。
相信這本書的印出,告慰的不只是父親在天之靈,也告慰了民國以來一些曾有偉大情操,付出巨大努力而不為人知,或更遭污辱冤屈的靈魂;也為後世人留下一份正義與悲憫;更希望革命以來,已歷經好幾個世代的犧牲與苦難的中國人,終能摸索到正道,正確而逐步地建立起未來中華民族與世界文明的新秩序!
周渝,紫藤廬茶館創辦人。大學時期研習經濟學、哲學及文學。畢業後曾任記者,創立「耕莘實驗劇團」,參與台灣早期民主運動,對民主發展及藝術人文皆懷抱極大熱情與理想,在戒嚴封閉的年代曾不遺餘力贊助新生代藝術家。一九八一年創立文化茶館「紫藤廬」,長期推廣茶道美學、國際茶文化交流及藝文活動。
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●精采試閱
北大生活與師長風采
余入北京大學後(為民國九年秋季,余年未滿十八),外文則加入德文班,時大學預科二年,本科四年,大學改制後,世人以預科比高級中學,實則就師資及學生程度而論,比現在之高中高出遠甚。德文教師為海理威,本青島德國總督府秘書,與教務長顧孟餘先生善,日本佔據青島後顧先生乃迎之教德文,初教席勒(Friedrich von Schiller)《威廉.泰爾》(Wilhelm Tell)劇本,彼不解華語,必須耐心聽講,後教哥德(Wolfgang von Goethe)之《浮士德》(Faust)。一年級德文成績余第一,李梅羹第二(後加入共產黨,為托派,民國十八年,余猶遇之於上海,厥後不知所終),一年級結業後余能自讀德國典籍。國文教授則有單不厂,教國故概要,林損教散文,均當代名家。史學教授為陳漢章,清季中鄉舉,後專攻史學,有名,京師大學堂徵為史學講師,到校後求為學生,蓋京師大學堂畢業即為進士,可入翰林院。不二年鼎革,嚴復任校長,乃聘為教授,此亦一笑談也。第二外國語(英文)講師為涂允檀,留美學生(國民政府成立後,曾出任駐外公使),從ABC教起。經濟概要教員為余文燦,教育不佳,學生全賴自修,法律教員為林彬(後任國民政府司法行政部長),所授皆現行法不講學理,余不感興趣,統計教員為陳啟修,學力亦不稱職,彼在各專校兼課,每週課務達卅六小時之多,故在各校輪流請假,是敗壞學風之第一人也。一年級結業,余領全班。
民國八年五四運動後,《新青年》月刊移上海由陳獨秀主持,大肆宣傳共產主義及唯物史觀,李大釗在北大開唯物史觀課程,戴季陶、沈玄廬主辦《星期評論》,以中山之幹部身分,竟為唯物史觀及共產主義張目,此外尚有《嚮導》月刊,亦為共產黨人所主辦,持論較《新青年》更顯白而激烈,胡漢民亦在《建設雜誌》上推崇唯物史觀,汪精衛反沉默,似只在《建設月刊》發表一篇文章,論歐戰後之國際問題。斯時並無左傾?相,戴胡等本亦讀中國書,舊思想既被推翻,心無主宰,故容易吸收流行之思想。最可異者胡適之,本以實驗主義為號,斯時亦向藍公武讓步,承認唯物史觀之正確性。此時余因學潮居上海,盡讀各派言論,思想極混沌,只靜觀演變。
民國十年秋,余已升入預科二年級,鄧康、羅章龍等邀余加入馬克思學說研究會,由李大釗教授主持,余思入會覘形勢亦未嘗不可。一日鄧康(中夏)來訪,請余每週赴長辛店教課一次,月酬三十元,旅費由學會擔任,余曰:「余讀書之不暇,何有時間教書?」鄧曰:「無階級意識乎?」余受儒書及心理學之影響甚深,乃曰:「余只知個人方有意識,階級乃一集體空名,不能衣,不能食,不能思考,何來意識?」鄧曰:「你不相信唯物辯證法乎?」余曰:「辯證法之名稱甚古,黑格爾之辯證法亦從心性入手,馬克思以物易心,其中問題尚多(此引顧孟餘先生課堂上之言論),一時無可奉告。」鄧曰:「既如此,你不夠格做馬克思學說研究會會員。」余曰:「既稱學會,應使人人有研究之自由,你輩為此固執,我願退會。」時余已讀《浮士德》,又對鄧康曰:「歌德曾曰:『物質乃一堆腐朽』,我不願受腐朽東西指揮,我只知隻手可以挽狂瀾。」鄧康大怒曰:「你真不配做會員,請你退會。」余曰:「我已言明退會,何待你請。」事後李梅羹、胡家鳳、鍾繼璜告余曰:李大釗曾責鄧康「操之過急,致使本會喪失一英俊青年」,事後余亦未追問。
陳獨秀既任教育委員會委員長,乃招北大教授胡適之、顧孟餘二先生入粵,胡應招而顧則拒之。胡赴粵先訪陳炯明,會談情形不明,後訪中山。中山正擬擴大國民黨,邀胡入黨並預許為中央宣傳部長,當時孫擁總統空名,一籌莫展,支票不靈,胡拒之。胡返北大後,一日,余見北大日刊,刊出胡先生一篇文章,謂「見了宣統,宣統稱我為先生,我稱宣統為皇上」等語,余思「既赴粵見中山及陳炯明,回來又見宣統,到底是什麼作法?」於時,胡之《紅樓夢考證》出版,余思胡先生以杜威之學說相標榜,杜威主張研究法的問題,又謂「學校即是社會,社會即是學校」,乃美國之激進首領,胡先生何以費大力研究死問題,真是玩物喪志,何況我素不喜《紅樓夢》,此書只寫出一班女孩子爭風吃醋,無思想可言,如是胡先生在余心中價值表上,一落千丈,不復視為哲人矣!後方知胡先生數數見宣統,成為好友!(見溥儀自傳)孫先生被陳炯明所逐,邵力子時主持上海《民國日報》,力詆陳炯明為叛逆。胡先生又在北大日刊發表一文,大意謂,「陳炯明之行動乃革命行動,不能稱為叛逆,民國時代,還有什麼叛逆。」等語,余思「陳炯明自清季即奉孫先生為領袖,現在之實力,亦孫先生一手所提拔,何能為此毒辣,即對朋友亦太不顧道義,否則社會內人與人相偶,尚有協調合作之可能乎?充胡先生之論旨,則中西倫理學及社會學各科可廢,人類均將退化為原始人!」民國時代既無叛逆可言,又安可稱溥儀為皇上,如是益不滿於胡,胡先生此類文章,現已不見於胡適全集,其他被胡先生刪去之文章尚多,以掩其矛盾之跡。
「他們」的日本語 豆瓣
かれらの日本語: 台湾「残留」日本語論
作者: 安田敏朗 译者: 黃耀進 / 林琪禎 出版社: 群學出版社 2016 - 3
從「大家的日本語」到「他們的日本語」,
「我們」學習「他們」的日語,真的這麼理所當然?
──從語言的混生變種現象,探討日本殖民統治的特殊性──
1898年,一位日本人,
對全臺灣發布政令,要臺灣人學習日語,以培養「本國精神」。
1930年,一位日本人,
操著一口濃厚九州腔日語,大聲訓斥臺灣學童的發音不夠標準。
1941年,一位日本人,
用臺語、日語交雜的混種語言,跟臺灣菜販你來我往的殺價。
1963年,一位日本人,
在臺灣爬山時,發現原住民小孩居然會哼唱日本童謠《桃太郎》。
1994年,一位日本人,
發現臺北某處公園內,一群老人流利地說著他們的臺灣腔日語。
2016年,一位臺灣人,
正努力背誦日文課本例句,希望發音能跟日文老師一模一樣。
語言使用的混雜與不完整,一直是殖民統治的常態。
然而,在臺灣的日語現象又更為複雜,
原因在於日本做為殖民者的特殊性。
做為一個有強烈「語言民族主義」意識的早熟亞洲帝國,
日本在臺灣推行了近乎宗教狂熱式的國語同化教育,
相信唯有推行國語,才能在精神上將臺灣人同化成日本人。
然而,事情沒那麼簡單。
除了日語源自漢文、本身即已非純粹外,
即便在日本內地,也存在著腔調迥異的方言,
而臺灣本就為多語言社會,更加深語言單一化的難度。
二十世紀的臺灣,身處連續殖民的政治情境。
戰後的國語同化政策,從日語換成了北京語;
但日本人發現,臺灣人在戰後仍繼續使用日語。
這不只引發其濃厚鄉愁,也引發關於國語教育的多方論戰。
針對這些現象的論辯及實例介紹,即為本書的主軸。
對親日的臺灣而言,應如何面對、理解日治時期的歷史?
除了懷想溫馨感人的歷史小故事,本書對日本的批判立場,
可提供我們理解臺灣史的另一個知識管道。
畢竟除了「親日」,要「知日」,也才更能「知臺」。
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【專文導讀】
陳培豐(中央研究院臺灣史研究所研究員)
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黃英哲(日本愛知大學大學院中國研究科教授)
垂水千惠(日本橫濱國立大學國際戰略推進機構教授)
許佩賢(國立臺灣師範大學臺灣史研究所所長)
國立臺灣大學圖書館典藏日文善本解題圖錄 豆瓣
作者: 松原孝俊主編 出版社: 臺大出版中心 2009
本書是臺大圖書館與日本九州大學由松原孝俊與中野三敏教授率領之書目調查暨解題撰寫團隊共同完成之成果;是以多年的書目製作校核之成果為基礎,遴選珍善罕本之貴重書資料118種,進行更詳細的解題說明並附各作品具有特色或重要資訊之頁的書影編輯而成。由書目製作開始之時期計,是以十年完成之作。
本書除包含本館典藏日文線裝書善本資料之書目與解題(含中、日文對譯)之外,亦將本書收錄之圖書資料中的重要藏書印,整理成「藏書印譜」一節,並以「名詞解釋」一節,針對日本時代分期、版本學、文學分類、文學名詞、歷史等相關的名詞,以及身分職稱、民俗故事、機關學塾、地名、人名等,進行詳細的名詞解釋。此外,又製作「中日文學關係與臺大圖書館典藏日文善本年表」(含「『年表』日文書籍書名假名」、「『年表』日文書籍書名羅馬拼音」),以及提供書名、編/著者‧畫者、主題分類、關鍵詞、書籍調閱號等多種索引。因此本書不只可以增進讀者對臺大圖書館典藏的珍善日文古籍資料之認知與利用,同時也是學習日本近代文藝與日本版本學最適當之入門書籍。
誰在那邊唱自己的歌 豆瓣
作者: 張釗維 出版社: 滾石文化股份有限公司 2003 - 10
本書為研究1970年代台灣現代民歌興起、轉折的過程。依時序「台灣現代民歌」的發展出現三條主線:即楊弦、余光中帶動的「中國現代民歌」;李雙澤、楊祖珺為代表的「淡江一夏潮」路線;以及新興工業文化興起後的「校園民歌」。作者在書中指出上述三種路線的相對位置與文化功能,並指出其在台灣通俗音樂發展過程中70年代到80年代台灣文化變遷中所蘊含的意義。
序,或是一段回憶 陳俶文
自序
論文 致謝辭
導言
.兩種脈絡
.文化研究:異質的與歷史的
.生產機制為主的取向
.本文架構
第一章 序奏:對於 70 年代初期台灣文化的一些切片
.現代的與民族的: 70 年代權力集團與知識分子文化形構的基調
.鄉土:傳統/現代、高層/通俗
.台灣的西洋熱門音樂與現代民歌
.小結
第二章 「中國現代民歌」的摶成與轉折
.現代詩與現代民歌
.變種與現代民歌
.朝向建制化之路:通俗音樂文化工業的投入
.嚴肅音樂論述與現代民歌的正當性
.小結
第三章 淡江——《夏潮》路線的民歌運動
.淡江——《夏潮》路線的形成
.李雙澤的現代民歌
.民歌與社會(一):「非學院VS學院」的論述形構
.民歌與社會(二):楊祖珺的民歌推廣
.小結
第四章 新興唱片工業與「校園歌曲」
. 70 年代後期鄉土文化形構的轉折與新興文化工業的浮現
.「校園歌曲」的建制形構
.「校園歌曲」的形式與意識形態取向
.「中國現代民歌」的轉化與沒落
.小結
第五章 尾聲: 70 年代現代民歌的位置
.斷裂,以及不同路線現代民歌的文化位置與功能
.台灣通俗音樂歷程中的現代民歌
.對台灣當代社會文化形構的再認識
後記——一個樂迷的告白
附錄
參考文章與書目
音樂資料
附表目錄
.附表 1《音樂》雜誌讀者意見調查(部分)——1971/02/09
.附表 2:兩場演唱會一場座談會的演出歌手/出席人員
.附表 3:《我們的歌》第一、二輯曲目、作者、編曲者及演唱者
.附表 4:1977/12/19日「中國現代民歌之夜」歌手、曲目與作者
.附表 5:李雙澤參與創作作品一覽表
.附表 6:民眾關於娛樂、消費、教育及文化服務等項的消費比例
.附表 7:每人每年平均觀看影劇次數
.附表 8:第一屆金韻獎青年歌謠決審大會演唱組選曲類別
.附表 9:現代民歌歌詞內容分類統計之一(江夢姝,吳淑馨版)
.附表10:現代民歌歌詞內容分類統計之二(楊祖珺版)
.附表10:79/08/01「唱自己的歌」演唱會歌手曲目與作者
.附表12:78、79、81年《滾石》版年終民歌排行(前十名)
.附表13華民國歌、詞作家學會民歌委員會(「民風樂府」)名單
.附表14民風樂府」大型演唱會活動狀況(1980-84)
.附表15:三種路線的現代民歌
.附表16:現代民歌的不同文化位置與功能
未来的主人翁 豆瓣 豆瓣
9.8 (236 个评分) 罗大佑 类型: 摇滚
发布日期 1983年1月1日 出版发行: 滚石唱片
这张专辑花了九个月才录制完成,《之乎者也》的成功带来了无数的争议和期许,使罗大佑在这段时间遭遇到了极大的压力。“这其实是最惨痛的一张唱片,碰到的挫折,失败的感觉是最多的。”《未来的主人翁》从头到尾弥散着一种抑郁苍凉的情绪,相信和作者当时内在面临的矛盾,以及外界充满无力感的时代气氛都有关系。

“一定是第二张唱片最难做。因为第一张你可以慢慢做,完全没有前面的负担,所有前面的年轻生命的积累都可以放在第一张。如果第一张不幸成功,人家会要求第二张也成功,而且要变...又要有成长,又要有磨练,又要有新的东西,新的看法,新的音乐方向,然后在音乐上必须诚实,因为新的方向必须是来自你自己人生观,音乐观的彻底改变。”罗大佑这番话对《未来的主人翁》里面的种种改变作了最好的注解。
一个人游游荡荡 豆瓣
曾淑勤 类型: 民谣
发布日期 1990年3月1日 出版发行: 点将唱片
曾淑勤是华语流行乐坛最重要的城市民谣女歌手,从1988年的《后浪》到1996年的《梦桥》,一共推出过9张专辑,《鲁冰花》、《不再等待天堂》、《情生意动》、《客途秋恨》、《爱情外的路人》、《一个人游游荡荡》等歌曲,更是一个时代的经典。在曾淑勤所属的点将唱片1996年被百代唱片购并后,她便没有再发行新专辑,并且逐渐淡出了歌坛。即便曾淑勤已经远离我们的视线多年,但对于许多喜欢华语流行乐坛经典年代的人而言,曾淑勤的歌仍是我们的至爱,因为曾淑勤的歌发自她的灵魂深处,她的声音有种温暖灵魂的质感,早就已经深植在我们心中。
曾淑勤第3张专辑,凭借这张《一个人游游荡荡》陈扬获得金曲奖最佳制作人,而且电影主题曲《客途秋恨》入围了年度最佳歌曲。唱片音色说不上出色,但整体素质上佳,值得你细细品位。
崛起於校园民歌比赛的曾淑勤,醇厚的中低音域,窜流著源自山林原始美质的自在与奔放,新民谣式的弹唱与创作风格,一直深受校园学子的钟情。
荷蘭聯合東印度公司臺灣長官致巴達維亞總督書信集1(1622-1626) 豆瓣
作者: 江樹生、翁佳音、陳瑢真、林孟欣、Paula Koning 出版社: 國史館台灣文獻館、國立臺灣歷史博物館 2011 - 3
國立台灣歷史博物館與國史館臺灣文獻館進行合作進行「荷蘭時期大員(臺灣)長官致巴達維亞城總督書信整理翻譯」計畫,將十七世紀荷蘭聯合東印度公司(VOC)檔案中,來臺十三任長官呈報給巴達維亞城總督之書信進行抄寫、整理與中文譯註,本書為司令官雷爾松及第一、二任臺灣長官於西元1622-1626年間之書信檔案。
台湾の言語と文字 豆瓣
作者: 菅野敦志 出版社: 勁草書房 2012 - 2
日本語から中国語に置き換えられた「国語」と、重視から排除へと位置づけが変化した「方言」である台湾語。この中国化の流れは、やがて母語教育による本土化へと進展する。日本からの解放、中華民国への「光復」によって始まった戦後台湾の言語・文字政策を、新たに発掘したものを含む豊富な一次史料をもとに、多角的・実証的に検証。
戰後臺灣政治史 豆瓣
8.2 (5 个评分) 作者: [日] 若林正丈 译者: 洪郁如 出版社: 臺大出版中心 2016 - 4
日本研究臺灣政治第一人――若林正丈,
在戰後臺灣政治變遷研究領域的學術生涯代表作。
若林正丈教授是日本近三、四十年來研究臺灣近現代史、戰後臺灣政治史最重要的學者。而本書正是若林教授在戰後臺灣政治變遷研究領域的學術生涯代表作。本書以「中華民國的臺灣化」為線索,統攝戰後臺灣政治史的發展歷程,分為「中華民國臺灣化的啟動(1945-1987)」與「中華民國臺灣化的展開(1987-2008)」兩部分進行論述。
本書整合目前為止中、日、英文學界對戰後臺灣史的研究成果,橫跨政治學、歷史學、語言學、社會學、區域研究、認同政治等學術領域,是一本具科際整合特色的戰後臺灣政治史。本書更在先行者的研究基礎上進而提出其獨特的「分析式架構」,檢視並解釋戰後臺灣政治發展的軌跡,是一部飛得高、潛得深,能夠縱觀全局,並具有開闊視野的史家之作。