学术史
一切總歸儒林 豆瓣
作者:
黄聖修
出版社:
新文豊出版公司
2016
- 10
本書以清初康熙朝至乾隆初年纂修的《明史.儒林傳》為核心,探討《明史.儒林傳》纂修過程中所引發的爭議,及其所代表的學術意義,並以此來側面觀察清初官方學術文化政策的建構過程。相較於歷代的正史纂修,《明史》不僅纂修時間最長,所得到的關注以及保留下來的史稿、各類史料等,亦相對豐富。長久以來,受限於史料的分散,學者們多將焦點放在康熙十八至二十年(1679-1681)前後的〈理學傳〉爭議,並以「一切總歸儒林」作為結論。作者則站在前人研究的基礎上,延伸觀察視角,利用所蒐集的眾多史稿,檢視在總歸儒林「之後」,《明史》館如何實際處理〈儒林傳〉的問題,及其所反映的學術、政治意義,並論述《明史.儒林傳》在中國史學史、學術史上所確立的「新儒林傳」範式。
学海堂与晚清岭南学术 豆瓣
The Sea of Learning: Mobility and Identity in Nineteenth-Century Guangzhou
作者:
麦哲维
译者:
沈正邦
出版社:
广东人民出版社
2018
- 3
学海堂是由有名汉学家阮元于道光五年在广州城北粤秀山创办的书院,以专重经史训诂为宗旨,是清代很有影响力的书院之一。《学海堂与晚清岭南学术》描述学海堂改变了广州的精英文化,与地方社会文化背景相映;尽管学海堂占有垄断地位,但在广州城内或在三角洲腹地,仍存有其他诸多广府文人认同的文化生产基地。《学海堂与晚清岭南学术》通过考察文化学术各派之间的相互作用以及社会与地理上的认同现象,来展示十九世纪早期与中叶广州的社会文化景观和地方文化政治状况。
经今古文之争与近代学术嬗变 豆瓣
近代中国学术史是近代史研究的重要领域,由于其复杂性与难度,广为关注。经今古文问题为清学汉宋之争的子题,后演化为清末民初政教、学术转型的枢纽。晚清今文学复兴,尤其是康有为公羊改制学说引起一系列学术文化思潮,牵涉到晚清民国政治、社会、思想、学术等诸多层面,经今古文之争一直是海内外学界关注的焦点。本书历时性考察经今古文之争在晚清民国时期的渊源流变,虚实相济,贯通经史,揭示出儒学义理与科学史学二者诚有珠联璧合的可能,为我们认识近代中国提供了深入的视角。
编纂与刊刻 豆瓣
作者:
金晓刚
出版社:
浙江大学出版社
2021
- 4
《宋元学案》从康熙时始纂到道光年间正式刊刻,历经一百余年,先后形成黄宗羲原本、全祖望补本、黄璋校补本、王梓材与冯云濠的百卷定本。这些文本在内容上的增删、调整,一定程度折射出前后编纂者对宋元理学史的不同认识,其背后反映了编纂者不同的思想旨趣。黄宗羲始纂《宋儒学案》《元儒学案》,与清初尊朱辟王的学术思潮密切相关。从《理学录》《明儒学案》到《宋元学案》梨洲原本,黄宗羲、黄百家父子对理学史的认识,已不断突破道统,逐渐站在“合一代之公评”的角度评论宋元理学的得失。乾隆年间全祖望的补修,固然是为了完成黄宗羲遗志,但也渗透了对官修《明史》崇朱黜王以及官方压制学术自由的不满。相对黄宗羲父子的“理学”视野,全氏对宋元思想史采取更广泛的“儒学”维度,在人物评价上,表现出学术与道德并重,甚至道德重于学术的倾向。从黄宗羲到全祖望对宋元理学史的认识转变,表明清儒越来越注重儒学的寻常日用,不再以形上玄远的追求作为最高目标。黄璋父子校补《宋元学案》,虽努力恢复梨洲原本的面貌,但也继承了全祖望对宋元儒学史的众多认识。《宋元学案》在道光年间的校补、刊刻,其背后与理学复振及“汉宋合流”的思想转向息息相关。王梓材、冯云濠的《宋元学案补遗》,大规模增补儒学人物,展示了二人在步踵全祖望确立清代客观性学术的路径上走得更为广远。透过《宋元学案》的成书始末,可一定程度展现清代学术的转向。
荷兰的中国研究:过去、现在与未来 豆瓣
作者:
[荷]伊维德
译者:
耿勇
/
刘晶
…
出版社:
上海社会科学院出版社
2021
- 8
荷兰的中国研究有着悠久而深厚的历史。本书所收录的论文不仅回溯了19世纪中期至今荷兰中国研究的历史发展,还探讨了荷兰对中国研究领域中特定学科的关注。荷兰的中国研究源于荷兰在荷属东印度群岛进行殖民统治的需求,在20世纪上半叶对语文学高度重视,并在过去几十年里逐渐转向对现当代中国的学科研究。
清代文化东传研究 豆瓣
作者:
[日] 藤塚鄰
/
[日] 藤塚明直 编
译者:
刘婧
出版社:
江苏凤凰出版社
2020
《清代文化东传的研究》是日本学者藤塚邻关于清代文化东传朝鲜和日本的研究著作。此著作是藤塚邻在1936年提交的东京帝国大学的博士论文,曾于日本昭和二十年 (1975)在国书刊行会出版。著者藤塚邻在对清代文化东传朝鲜和日本的整体分析和阐释方面具有开阔深入的研究视角,作为一位文献收藏和鉴赏家,他在当时也收集了大量的清代和朝鲜学者的第一手宝贵文献资料,从而系统地论述了清代文化、学术、文学传入朝鲜和日本的清晰脉络。著作中也通过清代学人和朝鲜、日本学者的直接交流为个案,生动地描述了朝鲜和日本学者在接受清代文化和学术过程中的心理历程。著作文献资料丰富详实,论述和评价精湛准确,是研究近代东亚中、韩、日三国文化、学术、文学演进与交流方面的重要研究成果。
唐长孺回忆录 豆瓣 谷歌图书
作者:
唐长孺著 王素整理
出版社:
中华书局
2021
- 7
唐长孺先生(1911-1994)是著名历史学家,在魏晋南北朝隋唐史研究领域,是继陈寅恪之后公认的祭酒。唐先生生于江苏苏州吴江平望镇,祖母和母亲都是今浙江湖州南浔人,从舅乃近代著名藏书家、刻书家刘承干,嘉业堂藏书楼主人。回忆录记叙了南浔顾、朱、刘、张、庞、邢(南浔四象)、邱、梅、蒋,以及吴江殷氏、凌氏,嘉兴王氏等望族的兴衰史,涉及刘承干、张石铭、张静江、庞元济、蒋汝藻、殷兆镛、王欣夫等众多政治文化名人,并记叙了南浔与平望的园林、寺庙、学校、方言、风俗、米业、戏曲电影等,尤致意于人物、文化等随家国命运的沉浮。
唐先生1942年从上海赴湖南蓝田国立师范学院,1944年从蓝田赴四川乐山武汉大学,回忆录详细记述了入湘、入蜀的一路经历、见闻,以及与诸多学者的交往,如吕思勉、钱基博、马宗霍、吴其昌、钟泰、李剑农、彭铎、蒋礼鸿、朱东润、王仲荦、黄焯,等等。另如治魏晋南朝隋唐经济,乃受李剑农的启迪,在重庆初次与王仲荦相识,钱钟书《围城》中的“三闾大学”等,均在回忆录中述及。
唐先生晚年右眼失明,左眼视力经矫正亦仅0.2度,在学生的协助下完成《魏晋南北朝隋唐史三论》后,开始奋笔独力撰写回忆录,虽仅至入蜀而止,但内容生动丰富,文笔简净,以史家的眼光,呈现了近代江南大族随家国命运沉浮和江南人文民俗变迁的一幅长卷,同时也是抗战时期学人辗转播迁、孜孜不懈为文化存亡继绝的社会缩影。
唐先生由于视力所限,手稿极其难识,王素先生做了细致的整理和简注,使这份珍贵文献得以粲然可读。此次出版,并将唐先生全文手稿影印,以与天下读者共参酌。
唐先生1942年从上海赴湖南蓝田国立师范学院,1944年从蓝田赴四川乐山武汉大学,回忆录详细记述了入湘、入蜀的一路经历、见闻,以及与诸多学者的交往,如吕思勉、钱基博、马宗霍、吴其昌、钟泰、李剑农、彭铎、蒋礼鸿、朱东润、王仲荦、黄焯,等等。另如治魏晋南朝隋唐经济,乃受李剑农的启迪,在重庆初次与王仲荦相识,钱钟书《围城》中的“三闾大学”等,均在回忆录中述及。
唐先生晚年右眼失明,左眼视力经矫正亦仅0.2度,在学生的协助下完成《魏晋南北朝隋唐史三论》后,开始奋笔独力撰写回忆录,虽仅至入蜀而止,但内容生动丰富,文笔简净,以史家的眼光,呈现了近代江南大族随家国命运沉浮和江南人文民俗变迁的一幅长卷,同时也是抗战时期学人辗转播迁、孜孜不懈为文化存亡继绝的社会缩影。
唐先生由于视力所限,手稿极其难识,王素先生做了细致的整理和简注,使这份珍贵文献得以粲然可读。此次出版,并将唐先生全文手稿影印,以与天下读者共参酌。
从东方学到汉学 豆瓣
作者:
陈喆
出版社:
中华书局
2021
- 5
本书主要由八个章节和一个附录组成。章介绍艾约瑟的生平、研究意义以及本文撰写的思路和方法。第二章主要讨论近代早期欧洲学界对人类不同语言之间的差异与联系的认识,主要概述了在1871年艾约瑟出版《汉语在语言学上的位置》一书前,欧洲学界对语言演变和语言关系的研究情况。本书从第三章开始进入研究的核心部分。该章主要通过《中国在语言学上的位置》一书讨论艾约瑟的中西语言比较研究,考察湛约翰(John Chalmers)、艾约瑟和施古德三人在研究方法和旨趣上的异同。第四章主要介绍19世纪70年代之后,汉学界就艾约瑟的研究展开的争论,以及艾约瑟对评判的回应。第五章是由第四章引发的问题的延伸,主要探讨19世纪西方学界对语言研究科学方法的认识,以及语法比较、语音比较、谱系划分等方法的适用前提和局限。进而可以更加客观地看待那场汉学界百余年前的争论的本质。第六章的主要研究艾约瑟对汉语史和语言起源的探索,考察用现今标准衡量依然堪称科学的研究是如何围绕一个根本不可能解决的问题而展开的。后两章主要对艾约瑟的研究所面临的理论困境进行进一步解释。第七章主要研究汉语在19世纪语言形态演化理论中的角色,追溯西方学界如何看待汉语在语言形态演化过程中的地位,以及关于汉语的知识如何启发西方学者反思浪漫主义语言形态演化理论。第八章主要通过19世纪西方学界关于人类族群划分标准的争论解释艾约瑟试图通过语言同源来论证文明乃至人种同源的方法所面对的困境。后是全书的总结部分。附录部分主要探讨19世纪的比较语文学和中国文明西来说的关系。
張爾田著作集 豆瓣
作者:
黃曙輝 張京華 編
出版社:
上海大學出版社
2018
- 7
近代中國由於社會局勢之丕變,學術發展亦因之新變。此一時期,新學之興起自不待言,即使淵源深長之傳統學術,固然仍以强大的生命力、循自身固有之邏輯持續發展,但受其時社會變革之影響,無論是研究方法、研究理路,抑或是研究對象、研究範圍,均不可避免地出現新的變化、新的拓展。當此大變動之世,多元風氣的激盪,催生了大量卓有建樹的學術名家;他們的許多著作,近百年來光耀學林、堪稱經典,時至今日,仍有難以超越者,值得當今學界深入研究。然近代學人之著作,即使此前已有刊本行世,因年代久遠、存世無多,今天查閲已頗爲不易;部分著作雖不乏整理本行世,然與原作真貌終有距離;況且尚有不少未曾刊行之稿本、抄本深藏公私藏家之手,既鮮爲學界所知,遑論爲學人所用?有鑒於此,我社在有關專家學者的指導下,蒐集學術影響深遠、學術價值重大之近代學人著作,輯爲‘近代學術集林’叢書,絡續影印出版。作品之遴選,首重未刊之稿本、抄本,次擇校勘精善之刻本,少量兼及稀見之石印本或鉛印本,以冀展現某一學者著作之原貌、全貌。此《張爾田著作集》即爲其中之一種。
近代书目与中国传统学术的学科化转型 豆瓣
作者:
傅荣贤
出版社:
社会科学文献出版社
2020
- 4
围绕“书目”与“学术”的互动关系,既从学术演进的角度揭示近代书目发生、发展的规律及其谱系变革的动态特征,确证近代目录是一个具有内在逻辑统一性的学理领域;又以近代书目为框架,梳理传统学术在近代语境下学科化转型的完整脉络。书目不再是文献的被动记录和客观反映,而是通过文献秩序的建构,极主动地伸张学术见解,表达学术意志。本书可供古典文献学、图书馆学等涉及目录学专业的师生阅读,亦面向广义文史领域的读者。
言公与剿说 豆瓣
作者:
刘娇
出版社:
线装书局
2012
周、秦和漢初古籍中常有相同或類似內容重複出現於多種古書的現象,前輩學者已經注意到這種現象,並對西漢以前古書的體例特點和著作觀念有所認識。 二十世紀五十年代以來大量出土的戰國秦漢簡帛古籍對於傳世先秦秦漢古籍的整理工作具有重要作用。本文即以出土簡帛古籍為中心,充分吸取現代學者根據出土簡帛古籍校讀秦漢古籍的成果,運用比較分析的方法,對西漢以前古籍中相同或類似內容重複出現現象進行整理研究,在此基礎上探討了西漢以前人的著作觀念以及古籍著作體例上的特點,梳理了有關古籍的源流(包括其成書年代和過程、資料來源以及篇章的分合變化等),並從學派性質、校勘、訓詁等角度進一步理解新出土簡帛古籍。 我們所說的“相同或類似內容重複出現”指的是:某些出土簡帛古書與其他古書具有相同或類似內容的現象,這些內容或有相襲關係,或係同出一源。兩種以上的古書記載同一模式的故事的現象,也在考察之列。 我們研究的時間範圍是“西漢以前”(包括西漢)。根據內容,我們把西漢以前的古書大致分為三類:一般著作、兵書和數術方技之書。 對於一般著作(如《禮記》等傳記著作和諸子著作等),我們依據其文字表述,按照“篇章-段落-語句”的層次,將“相同或類似內容重複出現現象”大致分為四類。 1.兩種以上的古書存在重複之篇的情況; 2.某種單獨成篇的古書被整篇吸收或被割裂等情況; 3.兩種以上的古書存在文字相同或類似的段落或語句(不包括通行言辭)的情況; 4.通行言辭被引用或彙錄的情況; 本文一到四章分別論述這四種情況。第五章論述兩種以上的古書記載同一模式的故事的情況。 相對於一般著作而言,數術方技之書的情況比較特殊。數術方技之書實用性很強,內容上往往存在明顯的前後相承的關係,只是有的文字表述不盡相同(有時甚至差別很大),難以根據文字相合的程度進行歸類。所以本文將它們單列為一類,在第七章中加以討論。 兵書的情況介於一般著作和數術方技等實用類著作之間:目前所見的出士兵書多為兵學理論,具有較強的思想性,性質與一般著作相近;但也有討論具體的作戰技巧的,具有較強的實用性,如銀雀山漢簡《守法守令》篇。所以本文將兵書單列為一類,在第六章中加以討論。 “結語”部分總結本研究在古籍整理研究方面的作用:其一,本文的研究使我們進一步認識到先秦秦漢人“不以因襲為嫌”的著作觀念以及先秦秦漢古籍在著作體例上的特點;其二,在利用“先秦秦漢古籍中相同類似內容重複出現現象”整理傳世古籍方面,本文具體探討了《鶡冠子》、《文子》等書的真偽和時代以及《孔子家語》、晏子書等古籍的成書和流傳過程;其三,在利用“西漢以前古籍中相同或類似內容重複出現現象”解讀出土簡帛古籍方面,本文對相關出土簡帛古籍的性質和特點作了進一步探討,並從校勘、訓詁等角度對某些出土簡帛古籍作出解讀。
学問のかたち 豆瓣
作者:
小南 一郎 編
出版社:
汲古書院
2014
- 8
思想史が、それぞれの時代を代表する思想家たちが築き上げて来た思想の体系を解説し、それを分析することを中心にして記述されるのは当然のことであろう。各時代に固有な思想的な課題が、個々の思想家たちの思索を通して、結晶化され、その解答が提示されているのである。思想家たちが、苦悩を通して築き上げて来た思想の体系は、歴史の流れの中でその内容が検討され、改変が加えられつつ、時代を越えて継承されて来た。一人の思想家が思索を行なうのは、前代から受け継いだ思想的な遺産の基礎の上に立つだけではなく、その時代に固有な社会的環境の中においてであった。たとえ孤高の思想家がいたとしても、孤高という姿勢を取ること自体が、そうした態度を通して、固有の社会と関わりあっていたのである。
この論文集は、中国の思想家たちが思索を行なって得た、その精華を論ずるよりも、思索を行なう際の基礎条件の方に目を注ぎ、そうした条件が、時代の流れの中でどのように変化し、それが個々の時代の思想の具体的なあり方にどのように関わりあっていたのかを考えようとするものである。思想的営為をその基礎で支えて来た文化的要件には、多様な性格のものが存在していたであろう。精神文化的要素の占める割りあいの大きいものもあれば、社会制度的なものもあった。ここでは、特に思想の場を取り挙げて、検討を加えてみたいと思う。言うまでもなく、思想家たちの思索は架空の場でなされるわけではない。それぞれの社会に特徴的な思索のための場があり、またその成果を公表し、伝承するためにも固有の場や形式があったのである。
そうした場や形式を離れて、思索はあり得なかった。思想的営為の背後にあったそうした要件を把握することによって、思想史の記述を、より人間的な、血の通ったものとすることができるはずなのである。
この論文集では、問題をさらにしぼり、知の伝承・伝播の問題を中心に据えて、その知の継承の具体的な場であり、制度的な枠組みでもある学問のあり方を見てみようとした。それぞれの時代の教育・学習の具体的なかたちが、その時代の思想のあり方にさまざまな影響を及ぼしていたに違いないが、その相関の様子を考えるための前提として、学問の場という基礎的部分に目を注ぎ、それぞれの時代に特徴的な様相を検討しようとしたのである。
小南一郎「中国古代の学と校」は、中国における学校制度の形成について、新石器時代から秦漢時期までを概観したものである。礼関係の文献の中から、部族社会にまでさかのぼるであろう教育の様相を伝える資料を探して、そこに記された郷村の教育制度の中に、中国の学問の原型となるものがあり、おそらく戦国時代ごろまで、そうした古い要素が、大きく変貌することなく、伝えられていただろうことを論じた。
辛賢氏の「漢代経学の相貌――宇宙論的「知」の形成」の論文は、漢代の人々の思考のかたちを、より基礎的な部分で見ようとしたものである。特に漢代の易学が、象数易と呼ばれる占卜的要素の強いものであったことの意味を追及している。漢代の易には、 現実的な事象の吉凶を占うという性格が強く留められていた。こうした漢代の易学の背後に、この時代の人々に特徴的な〈天〉と〈人〉とを結ぶ観念があったと辛氏は指摘する。
吉川忠夫氏「六朝時代における家学とその周辺」の論文は、この時代に特徴的な学問のありかたについて、家学という視点から検討を加えている。六朝時期になると、門閥貴族体制の文化的な優位を反映して、一つの家系の中で学問を継承する、「家学」と呼ばれる学問のあり方が顕著になる。まず順陽の范氏が継承した家学の内容を検討し、范寧の「春秋穀梁伝集解」という注釈書が、范氏一族の人々、およびその周辺にいた門生故吏たちの共同作業として作り上げられたことを確認する。加えて、この時期の学問の伝承は、漢代の師法の継承を中心とする学問に比べて、より開かれたものであり、范氏の家学の伝統は、「理」を追及する中から、仏教信仰などにも繋がるものであったことを指摘する。
船山徹氏「梁代の仏教――学術としての二三の特徴」の論文は、仏教史の流れの中で、梁代という時代が具えていた特徴的な性格について分析を加えている。インドに原典のある仏教経典の漢訳作業は、五胡十六国時代、後秦の鳩摩羅什あたりが頂点となり、梁代になれば、さらに下った時期に中国に伝来して流行することになる唯識思想の論書と密教経典とを除き、主要な経典の漢訳はほぼ終わっていた。仏教活動の中心が、訳経から、訳された経典の整理と咀嚼、理解へと移っていたのである。こうした学問的仏教の進展と対応して、梁代ころになると、もっぱら仏教関係書を収蔵する図書館を指す言葉として、経蔵・経台・般若台などの語が用いられるようになると、船山氏は指摘する。
小島毅氏「宋代における経学と政治――王安石と朱熹」の論文は、大きくいえば宋代の学問として一括できるが、方向性に違いが見える、王安石と朱熹との二人の学問のありかたを、両者の経書注釈を通して検討したものである。これまで、王安石の学問は経学、朱熹の学問は道学と呼んで区別をされることが多かった。しかし、小島氏は、まず、両者の学問が基本部分で共通していたことを確認する。王安石の経典解釈は、天子を輔弼する宰相としての立場を基本としたものであり、朱熹の解釈は、支配者を善導することをめざして意見を述べる士大夫の立場を基本とするものであって、王安石と朱熹との経典解釈の違いは、両者の政治世界での立場の違いを反映するものであったと、小島氏は理解する。
鶴成久章氏「近世中国の書院と宋明理学――「講学」という学問のかたち」の論文は、書院の具える様々な機能(蔵書のための施設という性格など)の中でも、特に重要なのは「講学」活動であったとして、その内容を詳しく分析している。
宮紀子氏「モンゴル王族と漢児の技術主義集団」の論文は、知の空間的(地域的)な伝播の問題に注目している。しかもその知は、儒家の経典に由来するものではなく、主として自然科学的なものであった。医学などに代表されるように、直接的な有用性を具えた、技術的な知識なのである。そうした技術的知識を持つ人々を、モンゴルの王族たちは、争うようにして自分の手元に置こうとした。この時代に勢力を伸ばした新しい道教、全真教の教祖たちも、こうした技術的知識に深く関わっていたと宮氏は指摘している。
三浦秀一氏「人法兼任の微意――明代中後期の科挙および督学制度と思想史」の論文は、従前の見方に訂正をせまるものである。三浦氏は、明代の科挙をめぐる制度的な問題や具体的な科挙試験問題の模範解答(程文)を検討して、そこに明代の思想家たちに課せられた問題が反映していることを確認する。とりわけ、試験の実務にあたる督学官たちの、思想的な立場からの使命感と職務の実態との乖離に由来する苦悩を分析し、そうした苦悩とその克服との中に明代の思想の具体的なありかたを見ようとしている。
水上雅晴氏「清代学術と幕府――編纂と代作の状況を中心として」の論文は、当時の有力者たちが開いた幕府に幕友としてそれに関わった学者たちの実態を詳しく分析している。幕府の府主が学者たちを自分のもとに集めたのは、そこでの学術活動の中心が書物の編纂にあったからである。幕府で行なわれた編纂作業の中心は、地方志の編纂、失われた書物の復元(輯逸)、古典のテキストの校勘などにあり、府主の政治的立場は資料の収集を容易にし、集まった幕友たちの共同作業が、学術研究の基礎資料となるような書物を次々と生み出した。
平田昌司氏「「仁義礼智」を捨てよう――中央研究院歴史語言研究所の出現」の論文は、思想的課題に中国の人々がどのように対応したのかを、歴史的な動きの中で、詳しく分析している。西洋の学術思想と中国の伝統的な思想とのもっとも大きな違いは、西洋の学術が自然科学を基礎に置き、そこで探求される真理は善悪の観念に関わらないとされるのに対して、中国の学問は基本的に人間的・社会的な善(倫理)を求めてなされるものであったことにあるだろう。もちろん中国にも自然科学的な学問の伝統もあったが、学問の主流は人文学にあり、そこでの探求の方向は、倫理的価値観と切り離せないものであった。西洋の自然科学の持つ体系性や論理性に引かれて、二十世紀の初頭のころ、自然科学の教育を受けた、著名な知識人は少なくない。ただ、かれらの多くが、やがて自然科学の学問から離れてしまう。中国の「国粋」尊重へもどってしまう者たちもいた。そうした中で、自然科学的客観性を保持しながらも、中国の文化伝統へ目を注ぐべく、民衆的文化を対象とする学問が築かれた(平田氏は、こうした流れを〈土の声を聴く〉と表現している)。中国の古典も、さかのぼってゆけば〈土の声〉に由来すると考えるのである。
研究者は、学問という回路を介して社会とつながっている。その学問は、それぞれの時代に固有な、特殊なかたちの学問なのである。研究は「実事求是」をスローガンとするとはいえ、「事」の主体をどこに置くか、求められる「是」の内容について、どのような点を重視するのかなどについては、時代の価値観が色濃く反映することになる。我々の学問も、現在という時代の中に囚われた学問であるのかも知れない。そのようにみずからの学問を客観視することは、むしろ必要なことであるだろう。しかし一方で、学問の歴史を詳しく見るとき、時代的な制約の下に縮こまるだけでなく、それを乗り越えようとする人間の精神の羽ばたきをも、そこに感じ取ることができるように思うのである。
この論文集は、中国の思想家たちが思索を行なって得た、その精華を論ずるよりも、思索を行なう際の基礎条件の方に目を注ぎ、そうした条件が、時代の流れの中でどのように変化し、それが個々の時代の思想の具体的なあり方にどのように関わりあっていたのかを考えようとするものである。思想的営為をその基礎で支えて来た文化的要件には、多様な性格のものが存在していたであろう。精神文化的要素の占める割りあいの大きいものもあれば、社会制度的なものもあった。ここでは、特に思想の場を取り挙げて、検討を加えてみたいと思う。言うまでもなく、思想家たちの思索は架空の場でなされるわけではない。それぞれの社会に特徴的な思索のための場があり、またその成果を公表し、伝承するためにも固有の場や形式があったのである。
そうした場や形式を離れて、思索はあり得なかった。思想的営為の背後にあったそうした要件を把握することによって、思想史の記述を、より人間的な、血の通ったものとすることができるはずなのである。
この論文集では、問題をさらにしぼり、知の伝承・伝播の問題を中心に据えて、その知の継承の具体的な場であり、制度的な枠組みでもある学問のあり方を見てみようとした。それぞれの時代の教育・学習の具体的なかたちが、その時代の思想のあり方にさまざまな影響を及ぼしていたに違いないが、その相関の様子を考えるための前提として、学問の場という基礎的部分に目を注ぎ、それぞれの時代に特徴的な様相を検討しようとしたのである。
小南一郎「中国古代の学と校」は、中国における学校制度の形成について、新石器時代から秦漢時期までを概観したものである。礼関係の文献の中から、部族社会にまでさかのぼるであろう教育の様相を伝える資料を探して、そこに記された郷村の教育制度の中に、中国の学問の原型となるものがあり、おそらく戦国時代ごろまで、そうした古い要素が、大きく変貌することなく、伝えられていただろうことを論じた。
辛賢氏の「漢代経学の相貌――宇宙論的「知」の形成」の論文は、漢代の人々の思考のかたちを、より基礎的な部分で見ようとしたものである。特に漢代の易学が、象数易と呼ばれる占卜的要素の強いものであったことの意味を追及している。漢代の易には、 現実的な事象の吉凶を占うという性格が強く留められていた。こうした漢代の易学の背後に、この時代の人々に特徴的な〈天〉と〈人〉とを結ぶ観念があったと辛氏は指摘する。
吉川忠夫氏「六朝時代における家学とその周辺」の論文は、この時代に特徴的な学問のありかたについて、家学という視点から検討を加えている。六朝時期になると、門閥貴族体制の文化的な優位を反映して、一つの家系の中で学問を継承する、「家学」と呼ばれる学問のあり方が顕著になる。まず順陽の范氏が継承した家学の内容を検討し、范寧の「春秋穀梁伝集解」という注釈書が、范氏一族の人々、およびその周辺にいた門生故吏たちの共同作業として作り上げられたことを確認する。加えて、この時期の学問の伝承は、漢代の師法の継承を中心とする学問に比べて、より開かれたものであり、范氏の家学の伝統は、「理」を追及する中から、仏教信仰などにも繋がるものであったことを指摘する。
船山徹氏「梁代の仏教――学術としての二三の特徴」の論文は、仏教史の流れの中で、梁代という時代が具えていた特徴的な性格について分析を加えている。インドに原典のある仏教経典の漢訳作業は、五胡十六国時代、後秦の鳩摩羅什あたりが頂点となり、梁代になれば、さらに下った時期に中国に伝来して流行することになる唯識思想の論書と密教経典とを除き、主要な経典の漢訳はほぼ終わっていた。仏教活動の中心が、訳経から、訳された経典の整理と咀嚼、理解へと移っていたのである。こうした学問的仏教の進展と対応して、梁代ころになると、もっぱら仏教関係書を収蔵する図書館を指す言葉として、経蔵・経台・般若台などの語が用いられるようになると、船山氏は指摘する。
小島毅氏「宋代における経学と政治――王安石と朱熹」の論文は、大きくいえば宋代の学問として一括できるが、方向性に違いが見える、王安石と朱熹との二人の学問のありかたを、両者の経書注釈を通して検討したものである。これまで、王安石の学問は経学、朱熹の学問は道学と呼んで区別をされることが多かった。しかし、小島氏は、まず、両者の学問が基本部分で共通していたことを確認する。王安石の経典解釈は、天子を輔弼する宰相としての立場を基本としたものであり、朱熹の解釈は、支配者を善導することをめざして意見を述べる士大夫の立場を基本とするものであって、王安石と朱熹との経典解釈の違いは、両者の政治世界での立場の違いを反映するものであったと、小島氏は理解する。
鶴成久章氏「近世中国の書院と宋明理学――「講学」という学問のかたち」の論文は、書院の具える様々な機能(蔵書のための施設という性格など)の中でも、特に重要なのは「講学」活動であったとして、その内容を詳しく分析している。
宮紀子氏「モンゴル王族と漢児の技術主義集団」の論文は、知の空間的(地域的)な伝播の問題に注目している。しかもその知は、儒家の経典に由来するものではなく、主として自然科学的なものであった。医学などに代表されるように、直接的な有用性を具えた、技術的な知識なのである。そうした技術的知識を持つ人々を、モンゴルの王族たちは、争うようにして自分の手元に置こうとした。この時代に勢力を伸ばした新しい道教、全真教の教祖たちも、こうした技術的知識に深く関わっていたと宮氏は指摘している。
三浦秀一氏「人法兼任の微意――明代中後期の科挙および督学制度と思想史」の論文は、従前の見方に訂正をせまるものである。三浦氏は、明代の科挙をめぐる制度的な問題や具体的な科挙試験問題の模範解答(程文)を検討して、そこに明代の思想家たちに課せられた問題が反映していることを確認する。とりわけ、試験の実務にあたる督学官たちの、思想的な立場からの使命感と職務の実態との乖離に由来する苦悩を分析し、そうした苦悩とその克服との中に明代の思想の具体的なありかたを見ようとしている。
水上雅晴氏「清代学術と幕府――編纂と代作の状況を中心として」の論文は、当時の有力者たちが開いた幕府に幕友としてそれに関わった学者たちの実態を詳しく分析している。幕府の府主が学者たちを自分のもとに集めたのは、そこでの学術活動の中心が書物の編纂にあったからである。幕府で行なわれた編纂作業の中心は、地方志の編纂、失われた書物の復元(輯逸)、古典のテキストの校勘などにあり、府主の政治的立場は資料の収集を容易にし、集まった幕友たちの共同作業が、学術研究の基礎資料となるような書物を次々と生み出した。
平田昌司氏「「仁義礼智」を捨てよう――中央研究院歴史語言研究所の出現」の論文は、思想的課題に中国の人々がどのように対応したのかを、歴史的な動きの中で、詳しく分析している。西洋の学術思想と中国の伝統的な思想とのもっとも大きな違いは、西洋の学術が自然科学を基礎に置き、そこで探求される真理は善悪の観念に関わらないとされるのに対して、中国の学問は基本的に人間的・社会的な善(倫理)を求めてなされるものであったことにあるだろう。もちろん中国にも自然科学的な学問の伝統もあったが、学問の主流は人文学にあり、そこでの探求の方向は、倫理的価値観と切り離せないものであった。西洋の自然科学の持つ体系性や論理性に引かれて、二十世紀の初頭のころ、自然科学の教育を受けた、著名な知識人は少なくない。ただ、かれらの多くが、やがて自然科学の学問から離れてしまう。中国の「国粋」尊重へもどってしまう者たちもいた。そうした中で、自然科学的客観性を保持しながらも、中国の文化伝統へ目を注ぐべく、民衆的文化を対象とする学問が築かれた(平田氏は、こうした流れを〈土の声を聴く〉と表現している)。中国の古典も、さかのぼってゆけば〈土の声〉に由来すると考えるのである。
研究者は、学問という回路を介して社会とつながっている。その学問は、それぞれの時代に固有な、特殊なかたちの学問なのである。研究は「実事求是」をスローガンとするとはいえ、「事」の主体をどこに置くか、求められる「是」の内容について、どのような点を重視するのかなどについては、時代の価値観が色濃く反映することになる。我々の学問も、現在という時代の中に囚われた学問であるのかも知れない。そのようにみずからの学問を客観視することは、むしろ必要なことであるだろう。しかし一方で、学問の歴史を詳しく見るとき、時代的な制約の下に縮こまるだけでなく、それを乗り越えようとする人間の精神の羽ばたきをも、そこに感じ取ることができるように思うのである。
李俨/钱宝琮科学史全集 豆瓣
作者:
李俨
/
钱宝琮
出版社:
辽宁教育出版社
1998